-Uri Column- / Comics


Vagabond。

 井上雄彦の『バガボンド』を、先週一週間かけて一気読みした。もちろん既刊の15巻までではあるが。

 瞠目したのは、「草」と「葉」である。

 およそディティールを描き込んでいる、と言われる作品であっても、草や葉は省略されることが多い。それは描き込む手間の問題ではなく(もちろんそういう場合もあるであろうが)、むしろ絵として邪魔になる、いわゆる「コマがうるさくなる」のを避けるための方法論に拠るところが大きいと思われる。

 が、『バガボンド』では、登場人物の足下には無数の落ち葉が描かれ、木には鬱蒼と葉が茂っている。のみならず、木の幹にはあろうことか「木の皮」まできちんと描写されている。主人公が戦う野原では、地面いっぱいに生えた草が、草鞋(わらじ)を覆う。

 手元にあるほかの作品と見比べてみても、描かれている葉の枚数は比較するどころではない。おそらく一つのコマに数百枚、一話あたりでは数千枚の草や葉が描かれているのではないか。

 葉が葉であるためには、輪郭だけでは足りない。『バガボンド』に描かれている葉には、一枚一枚、きちんと葉脈まで描き込まれている。

 なぜ、作者はそこまでこだわるのか。

 「作品世界」という言葉がある。マンガに限らず、小説でも歌舞伎でも歌劇でも落語でも、一つの作品はそれ自体が世界を構成し、現実とは明確な一線が引かれる。そして、あらゆる事象がその作品世界の中で再現され、我々が生きるリアルな時間および空間の認識から切り離された次元として、鑑賞するものの疑似体験を可能とする。その上で、作品世界が現実と錯綜する瞬間、それは虚構(=フィクション)という一種の仮想システムとして成立し機能し得る。

 つまり、鑑賞者が作品に入り込むことができるかどうかは、作品世界をリアルと感じられるかどうかに大きく依拠している、とも言える。それはたとえば、「ものすごく現実離れした」世界であってもかまわない。肝要なのは、目の前で展開している作品世界を自らの体験として感じられるかどうかであり、いわゆる現実との一致性は一切影響されない。

 作品世界を構成しているものは、たとえば背景であったり、台詞であったり、登場人物の思考であったり、およそその作品に含まれるあらゆるモノやコトと言える。あるいは、それらの総体としてあたえられるイメージと表現しても許されるかもしれない。

 『バガボンド』に描かれている草や葉の一枚一枚は、今まで無視され、省略されることを余儀なくされていた部分を逆に濃密に再現することによって、作品中に展開されるドラマと融和し、さらにそのドラマの中に生きる登場人物たちの存在をレリーフのように鑑賞者の眼前に提示する機能をも果たす。

 草や葉を無数に描くことによって、作者は鑑賞者をも作品世界の一構成要素にしてしまうという荒技に挑んでいるように思われてならない。

■井上雄彦氏公式サイト■
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Last Update : 2002/11/26

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