-Uri Column- / Misc


Naniwa。

 今さら瓜生が言うまでもないことですが、ずーっと昔、大阪市の西半分は海でした。今からはちょっと想像しにくいのですが、大阪城は「海ぎわ」の城だったそうです。
 ただ、その海辺は白砂の続くような海岸ではなく、四方八方から川が集まり、地形はもちろん、水の流れも相当複雑な低湿地でした。
 で、その頃の名残がまだ地名に残っています。わかりやすいのが、大阪の代名詞とも言える「なにわ」。漢字では「浪速」と書き「難波」とも書きます。
 速い浪、難しい波。いずれにしても、船での往来にはあまり適さなかったのかもしれません。もっとも、太閤さんが大坂城をつくったあたりから開発が進み、「掘」がそれこそ碁盤の目のように作られ、治水も計画的になったようです。それで水運による物流が発達し、堂島には米市場ができたりして、商業が発展した、と。

 これも知ってる人には言わずもがなのことですが、大坂城の規模は今とは比べものにならないくらい大きなものだったそうです。
 ここからは手元に地図があればそれを見ながら読んでいただきたいのですが、現在の大坂城は北は寝屋川、東はJR環状線、南は中央大通り、西は上町筋で区切られています。
 が、今からざっと400年ちょっと前、作られた当時の大坂城は、南は今の長堀通、西は松屋町筋のさらに西を流れる東横堀川までが敷地だったらしいです。
 敷地の中には武家屋敷とともに町屋敷もあって、十万人くらい住んでいたっていうからビックリです。

 となると、家康が大阪城を攻めるときに天王寺の茶臼山に本陣を構えた、ってのもわかります。今の土地勘で行けば「なんでそんな遠いところに?」ってなっちゃうんですが、本陣を茶臼山に置くと、きっと最前線は夕陽丘から生玉あたりに来ると思われ、上本町を挟んで大阪城と対峙することになるわけで、今の真田山に真田幸村が陣を構えたことから考えても、ちょうどいい位置に来ます。

 で、大阪城から西に向かって「船場」とよばれる町並みが続くのですが、そこがさっき書いた「碁盤の目」のような川の町だったそうです。
 俗に「大阪八百八橋」っていうのも、あながちオーバーじゃないくらい縦横に川が流れ、橋が架かっていました。でも肝心の船場には高麗橋くらいしか町名には残っていなくて、ちょっと離れた肥後橋、心斎橋、四つ橋、出入り橋あたりに残り香を見つけられますね。
 ちなみに川(というより掘)を走らせて町を拓いたのは、太閤さんよりも家康さんだったそうです。

 もっともっと大昔は、瓜生の生まれ育った東大阪から八尾あたりは大きな湖だったらしく、河内湖と名付けられているようです。さらにそのもっと前は河内湾だったらしいんですが、まぁそこまでいっちゃえば紀元前の話になるので、やめときましょう。

 話が前後しましたが、つまり大阪市ってけっきょく開拓と干拓の繰り返しでなんとかなってきた町、って言えるかもしれません。中津、とか、高津、とか、海老江、とか、野江、とか、海っぽい名前があちこちにあるのもきっと名残なのかな、なんて考えると楽しいですよね。

 で、梅田なんて、今でこそ大きな街になっちゃってますが、中世あたりまでは一面の田んぼだったらしいですから。(それを言えば江戸もいっしょですねー)でもよーく考えてみると、おかしくない?梅の田んぼって、なんか違和感ありません?
 実は数日前に、そんなことをつらつら考えてたんですが、そのとき、ふっ、と思ったんです。
「まさか、梅田って...埋め田?」
 さっそくGoogleで検索してみたら、けっこうヒットしちゃいました。やっぱりそうだったみたいですね。

 相変わらずまとまりのない文章になっちゃいましたが、まぁたまにはこんな話題もいいかなぁ、って。

Last Update : 2002/12/24

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