-Uri Column- / Misc


昔、アドリブに憧れたことがあった。

高校に入学して、ギターをはじめた。それと同時に、クラブは吹奏楽部を選んだ。大学にはいるとフォークソング同好会の不良部員になり、数年前はとあるグループが楽しんでいるバンドにシンセウィンドで参加させてもらった。
ずーっと憧れていたのは、アドリブ演奏だった。


テレビを見たりレコードを聴いたり演奏会に行ったりして、誰かが颯爽とアドリブを演奏しているのを見ると、いつもタメ息が出るほど感動してしまう。

高校の吹奏楽部ではクラリネットを吹いていた。サキソフォンやトランペットに比べるとソロの出番は少なかったけれど、それでもたまにディキシーランドのナンバーなんかが演奏会の題目に入っていたりすると、目立ちたがり屋なのでとても喜び、下手ながらも精一杯がんばった。

一人、サックスがとてもうまい先輩がいて、どんなに難しいアルペジオでも軽々と吹きこなしていた。16分音符が4つ以上続くと指がもつれてしまっていた僕は、すっげぇ、って尊敬していた。

MALTAの『High Pressure』だったと思う。吹奏楽部の定期演奏会で、バリバリのサックスのソロがその先輩に回ってきた。とにかく“あの”MALTAである。一小節にこれでもかってくらい音符を入れてくるだけでなく、どれがどれかわからないほどシャープとフラットが並んでいた。ように、僕には見えた。

先輩は、本番で完璧と言っていいほどソロを見事に演奏した。やっぱり僕は、すっげぇ、って尊敬してしまった。もちろん、先輩が吹いたソロは、アドリブではなく、楽譜に書かれたアドリブのメロディーを吹いたのだけれど。

大学では友達と組んで、そいつにコードをかき鳴らさせながらアドリブっぽいメロディをむちゃくちゃに弾いたりして遊んでいた。バンドの末席でも、ウィンドシンセであることを利用して、サックスの音でアドリブっぽいフレーズをこっそり吹いて失笑を買っていた。

ずっと、アドリブに憧れながら、でもどうしたら吹けるのかまったくわからなかった。
やっぱり音楽理論からやらなくちゃダメかなぁとか、コードを勉強しなくちゃかなぁとか、それ以上に運指の訓練だよなぁ、とか思いながら、結局なにもできない自分を省みて、ちょっと自己嫌悪していた。

アドリブとは即興演奏である。その場で思いついたメロディを、思い通りに演奏するのである。つまり、その場でメロディが瞬間的に思いつかなければアドリブはできず、思いついたとおりに演奏できなければ、アドリブはできない。当たり前だけど。

確か、『ベニー・グッドマン物語』だったと思う。ひょっとしたら『五つの銅貨』だったかもしれない。バンドに入った主人公が、自分が持ち込んだ楽譜をメンバーに回そうとしたら、みんながそんなものいらない、とはねつける。楽譜がないと、いいメロディが浮かんだ時忘れてしまうじゃないか、と尋ねると、サッチモ(だったと思う。もちろん、ルイ・アームストロングのことである)が言う。「かわいい小鳥に、今のさえずりをもう一度同じように歌ってご覧、って言うのかい?」。

かなり前に見たシーンなので、ぜんぜん違うかったり他の映画とごっちゃになってるかもしれないけど、確かにアドリブは瞬間芸術みたいなもので、一度やったら二度とできない。もちろんレコードやテープに録音されて、そこから譜面を起こすこともできるけれど、譜面にしたその瞬間、それはアドリブではなくなる。

つまり、アドリブにはやっぱり感性と才能がいるんだよ、なんて、勝手に思い込んでいた。

ある日、テレビで有名なジャズプレイヤーが出ていた(誰だったかは、不覚にも忘れてしまった。黒人の人だったように思う)。曲と曲の合間に、番組の司会者がアドリブに必要なものは何か尋ねた。やはり音楽的センスでしょうか、それとも芸術性でしょうか。
そのプレイヤーは、たった一言、言い放った。

アドリブに一番大切なことは、次の音に移る勇気だよ。

なんだか、ほんとうに目の前のウロコがぽろっと落ちたような気がした。世界的なプレイヤーであっても、やっぱり次の音に移る「勇気」が必要なんだ。もちろん感性や才能や理論やテクニックがあってこその言葉なんだろうけれど、それらを全部身につけても、あるいはだからこそ、次の音を選ぶ難しさと闘っているんだ。

その言葉に目覚めた僕は、それ以来アドリブを(正確に言うと、うまくアドリブが演奏できるようになることを)きれいさっぱり諦めることができた。ような気がする。

こんなサイトを見つけて、久しぶりに押し入れからギターを引っ張り出して、適当にコードを押さえながら鼻歌を歌っていたら、そんなことを思い出してしまった。我ながら、バカだねぇ、って思いながら。

Last Update : 2004/03/14

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