-Uri Column- / Owarai


笑い飯。

「笑い飯」について、考えてみる。
 彼らの笑いは、よく紹介コメントでも触れられているが、「二人ボケ」による。
 二人がともにボケあい、まるでわんこそばでも食べているような気になってしまうほど、次から次へとボケを飛ばしあう。
 はじめて見たときは、正直びっくりした。文字にしてしまうと多少大げさな見栄えになるが、やはり「今までにないスタイル」を突きつけられたのは確かで、どう受け止めていいのかとまどってしまい、もっと有り体に言えば、これが漫才か?とまで思った。(なのに、大笑いしているのが自分でも不思議だった。)
 敢えて類似のスタイルをさがしてみると、実は「オール阪神・巨人」あたりにその面影が認められる。同じ岡一門になってしまうけれど、「岡けん太・ゆう太」や、あるいはもっと言ってしまえば「横山やすし・西川きよし」も「二人ボケ」に近いスタイルをとっていた。
 が、それらはただ「強いて似ていると言えば言えるかもしれない」といったレベルの話で、さらにもちろん、そういったスタイルにはすでに慣らされていたはずだった。
 けれど「笑い飯」のスタイルは「ボケのみをとことん交互に繰り返す」という点で、今までのものとは本質的に異なる。
 言葉の流れで「本質」という表現を使ったが、彼らの本質はむしろ「ツッコミ」にある。
 「大阪人が二人寄れば漫才になる」などと言われることがあるが、それはとんでもない話で、確かにボケるのが好きな人が多いから、他の地方(つまりボケることが一般化していない地域、という意味で)の人から見ればそう感じられるだけのことではないか。
 漫才師の回想番組などで、「ツッコミの練習を繰り返し行った」というエピソードがよく紹介される。が、「ボケを猛訓練した」という話はあまり聞かない。もちろんボケにも高度な技術が要求されるし、おそらくすべてのボケ役の漫才師達は必死でボケの錬磨に没頭しているのだろうけれど、それでもやはり恐れを知らない素人の発言として、ツッコミのほうが難しい、少なくとも努力しなければ体得できない、と言い切る。
 漫才や「吉本新喜劇」などの「笑い」を無造作に、それこそシャワーのように浴びる環境を幼い頃に経てしまえば、自然に「笑わせること」が人物判断の一つの基準になってしまう。ただしこれはおそらく人類的な習性であって、適度に笑いをとるスキルがあれば、それはどこの国でも評価に加点される。彼はユーモアがあってね、などと紹介されたら、それはほぼプラス評価と考えて間違いない。(ただしあまり行きすぎてしまえば、お調子者やふざけたヤツというレッテルが貼られ、無論マイナス評価となってしまうので一概には言えない。)
 人を笑わせる手っ取り早い方法は、ボケることである。特にアメリカン・ジョーク的な笑いの下地がない日本(さらに言えば大阪を中心とした近畿圏)では、持って回ったシニカルな冗談よりもよりわかりやすい、いわゆる「アホやな」の一言で完結できるボケが好まれる。つまり、「笑い」のシャワーを浴びて育った、いわば「笑いの言語形成期」を通った人種は、おそらくみなある程度ボケのスキルを習得していると言ってもそれほど叱られないだろう。
 誰かがボケると、自然な反応としてまわりのものはツッコミを入れる。が、ごく一般的なボケの場面では、ツッコミが入った頃にはもう笑いが生まれていて、ツッコミはあくまでも礼儀や慣習としての行為以上のものにはなかなか展開しない。
 いくら“大阪人”(この表現に大きな語弊があるのを承知で、敢えて使う)が漫才を子守歌に育っても、ボケが笑いの対象である限り、「笑わせるツッコミ」を使いこなせるにはかなりの力が要求される。
 一気に「笑い飯」に話が戻るけれど、彼らのツッコミはおもしろい。充分にツッコミで笑いをとっている。これはやはり、希有な才能(といって悪ければ非常に卓越した技術)だろう。
 「二人ボケ」ではなく「二人ツッコミ」と紹介してこそ、より「笑い飯」のおもしろさが理解できると思う。
 以下、余談として。
 滑舌があまりよくなかったり、あまりに早すぎる喋りなど、ちょっと損をしているような気もするが、下手に「うまい漫才」を志してしまうと、かえって彼らの持ち味は磨り減ってしまうかもしれない。
 さらに、あのスタイルが飽きられてしまい、その次にオリジナルなものを用意できたとき、「笑い飯」の進化が始まるのではないかと期待している。より自分の気持ちに正直になれば、期待させられてしまっている、と言うほうが気持ちいい。それがまた「笑い飯」のパワーなのだろう。
 さらに余談。
 「笑い飯」のネタを見たとき、ひょっとしたら「やられた!」と思った漫才師が多かったのではないか、と、どうしても勘ぐってしまう。
 煎じ詰めれば「笑い飯」のボケ合戦は大喜利やゲームなどでよく見かける、ある意味で伝統的な雑芸の一つであって、それをそのまま漫才に持ち込むのはむしろ芸がない、と思い込まれていたような気がする。
 それを自らのフォームに落とし込み、漫才として披瀝してしまった「笑い飯」は、果たして十年来の実力者なのか、それともたまたま遊びがそのまま勝ちにつながった強運者なのか。ここまで考えてもまだ評価が難しいのが、最終的な結論になってしまった。なんとも悩ましい二人ではある。

Last Update : 2004/01/31

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