漫画のこと。

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手塚治虫は、漫画の神様だそうな。

以下は、2004年3月にアップしたコラムっつーか、雑文をリライトしたものです。
当然時期的に『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』はまだ発表されていません、というより、その本をまだ読んでいないという体たらくでして、ここに載せようかどうしようか迷ったんですが、ま、いっか、と安易に開き直ってみました。

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手塚治虫を漫画の神様と、いつ、誰が呼び出したのかは知らないし、また、ほんとうにそうなのかどうかも、よくわかりません。でも、言われりゃそうだよなぁ、って思ってしまうのは確かなんですよね。じゃぁいったいどうしてそう思うのか。あくまでもメモとして、思いつくまままとめてみました。
まず、量と質について。
とにかく多作であること、まずはその一点において、手塚治虫は評価され得るのではないでしょうか。
ただし、いわゆる「トキワ荘」時代の作家や「花の二十四年組」は往々にして多作でして、石ノ森章太郎や永井豪、藤子不二雄、それから萩尾望都に山岸涼子など、多作な作家は枚挙に遑がありません。
けれど、手塚治虫の作品数はおそらくそれらを凌駕してしまうような気がします。ただしこのあたりは、実はきちんと調べずに書いています(なにしろ“メモ”ですから)ので、あくまでも印象としての話ですが。
また、多作であるということに関連して、ストーリーテラーというよりもむしろストーリーメーカーとしての評価も成立します。
SF、メルヘン、冒険、スペクタクル、医学、政治、社会など多岐にわたるジャンルにおいて、「物語」的なエンタテインメントから「思想」、さらには「哲学」の領域にまで踏み込んだフィロソフィカルな作品まで、手塚治虫におけるストーリーの深度は極めて多層的です。そしてその多層な作品世界の構築は、「読者の成長」と無関係ではなく、年々歳々高度になり続ける読者の要求に応える、というよりもむしろ、読者を先導もしくは啓蒙するかのようなスタンスで作品を創りあげています。
極言すれば、漫画のあらゆる可能性を実験し、実践し、作家・読者両面にノウハウとして提供した、とも言えます。これはもう、神様の称号にふさわしい業績でしょう。

もう少し具体的に考えてみましょう。
最初は、手法の確立。
「作品性」といった概観的な話ではなく、たとえばコマの自由度を極端なまでに解放したり、「スターシステム」と呼ばれる「同一(と思われる)人物(=キャラクター)による作品中の役の持ち回りあるいは他の作品への登場」を考案したりといった、具体的な手法についての発想と、研究と、試行錯誤の成果は、その後のマンガのテクニックにおいて看過できない先鞭性を獲得していると言っても許されるかと思います。神様と呼ばれる所以ですね。
なおスターシステムについては、おそらく多作であることと、強い相関関係にあるように思えます。

で、社会批判・政治批判・反体制的体制批判。
もともと子どもの娯楽であったマンガを、成人の鑑賞に充分堪えうるものとして進化させた要素の一つに、手塚作品の社会批判・政治批判が挙げられます。
『きりひと賛歌』や『MW』『奇子』などはその嚆矢であり、マンガが文化の一員として社会に認知されたエポックメイクな瞬間(って言ってしまえば大げさすぎるかもしれませんが)であったのではないでしょうか。
もちろん、成人向け(エッチな意味じゃなくってね)の漫画はつげ義春や永島慎二、小島剛夕など(すごく乱暴かつ乱雑な並べ方ではありますが、これはあくまでも“メモ”ですから)によって確立されてはいたので、子どものためのメディアだったものを大人の鑑賞に堪えうるものにしたのは手塚治虫一人の功績ではなく、むしろその意味においては手塚治虫は後塵を拝していたと言えるかもしれません。
けれどつげ義春のように、自己の内面に向かうベクトルをもって私小説風に(これも強引な言い方になるけど、やっぱり“メモ”ですので)表出させるのではなく、体制に対する批判を展開するといったパブリックな方向性を付加させたり、小島剛夕のようにタッチとストーリーのみを成人向けにした劇画(うわぁ、暴言です、はい。でも“メモ”でございますればご容赦の程を)とは一線を画した一人の「糾弾者」としての姿勢は、その後の漫画文化に大きな影響を与えました。
もちろんたとえば『サイボーグ009』における反戦的なメッセージや、『天才バカボン』におけるインテリジェンスへの痛烈なアイロニーといった作品も散見されるものではありますが、やはりより直截的なアンチテーゼを唱えた作品として、それらは他作品と区別されてしかるべきではないでしょうか。
実はそういった方向性による創作の結果は云々されるべきものではなく、ただ「やった」ことのみを評価するべきものなのかもしれません。
うーん、やはり神様と呼ばれても仕方ないかも。

さて、思想性。
『ブラック・ジャック』を通して描かれた生命への深遠とも言えるテーマの追求は、一言、すごい。
たとえば

「医者はなんのためにあるんだ」(6巻/少年チャンピオンコミックス/秋田書店、以下同)

という問いは、

「それでもわたしは人を治すんだっ」「自分が生きるために!!」(9巻)

という決意として表明されはしますが、やがて

「天地神明に/さからうことなかれ/おごるべからず/生き死にはものの常也/医ノ道はよそにありと知るべし」(12巻)

そして

「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとはおもわんかね?」(15巻)

という諦観に変貌する。いや、これはむしろ昇華と呼ぶ方が正しいかもしれません。
とにかくなにがすごいって、これを少年誌でやってしまったんですから。

言うまでもなく、「生命」というテーゼはライフワークである『火の鳥』でも思索を繰り返されていますが、同時に『火の鳥』ではそれ以外にも「時間」という大きなモチーフが横たわっていて、マンガによる作家の思想(哲学と言い換えても可)の表現は手塚治虫によって先鞭をつけられたと言ってもいいでしょう。
どうも神様と呼ぶしかないような気がしてきました。

このほかにも、ピカレスクな作品に挑戦してしかも成功したり、インモラルな主題に敢えて取り組んでみたり、とにかく作家としての振幅の広さはフーコーの振り子もびっくりです。

夏目房之介をして「手塚治虫は僕のマンガの潜在意識だ。」(『夏目房之介の漫画学』/ちくま文庫[Amazon])と言わしめたり、いしかわじゅんに「<影響>を否定してしまっては、戦後の漫画は、すべて手塚治虫の模倣である、といういいかただってできる。」(『漫画の時間』/晶文社[Amazon])とまで極論させる手塚治虫は、やっぱり神様だったんだ。

ただ、それはあくまでも「作家として創作し、発表された作品」をもってしての呼び名であって、手塚治虫という一個人の人格とはまた別の話である。とは、思いますが。
author : uriu | 過去録 | comments (0) | trackbacks (0)

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